三幕構成に関して(3) 『おくりびと』はなぜアカデミー賞を取れたのか

前回は「三幕構成」を「構成」するキーワードに関して説明した。

今回は、ではそれらの「三幕構成」が実際にどのように使われているか、ということに関して述べる。

これは、三幕構成を解説する際にあらゆる脚本指南書で用いられている手法だ。引用される作品の代表格としては『刑事ジョン・ブック/目撃者』『アフリカの女王』『スターウォーズ』『ジョーズ』などが例としてあげられることが多い。そして当然ながら、三幕構成が上手く決まっているこれらは所謂「名作」と呼ばれるものばかりだ。

ただし、難点もある。脚本の指南書で著名なものは割と古いものが多かったりもするので、鉄板として出てくる映画もちょっと古い傾向にあるのだ。なので、「確かに当時は良かったかもしれないけど、それはもう現代じゃ古いんじゃないの?」と訝る視点が生まれてくる可能性がある。断じてそんなことはないのだが…。


そこで、今回は日本人にも馴染みの深い作品でかつ、最近の作品である、『おくりびと』をネタに三幕構成に関して述べてみようと思う。

おくりびと』に関して今更説明の必要は無いだろう。いわずとしれた昨年のアカデミー賞外国語映画賞受賞作品であり、興行収入でも60億以上をたたき出している大ヒット作品だ。

注目すべきはこの作品が小山薫堂という本職・構成作家の手による第一回脚本作品だということだ。『おくりびと』は確実に三幕構成の論法に乗っ取って作られており、かなり意識的なレベルでそれが行われている。多分、間違いなくその手の指南書を小山薫堂は参考にしているはずだ(そしてそれは多分『ハリウッド・リライティング・バイブル』…ぶつぶつ…)。だから、この作品の構成をしっかりと見ていけば、大切なものは経験よりも方法論であると理解できるだろう。そして、この方法論こそ、実は膨大な経験の蓄積で作られているのだ。



【何についての話か?】

前置きが長くなったが、解説に入る。
まず抑えておきたいのは『おくりびと』は何についての話か?ということだ。主人公は映画冒頭でチェロ奏者としての職を無くし、失意の中、妻と一緒に故郷で新たなスタートを切ろうとしている。その後の話では、彼が勘違いして足を踏み入れた「納棺師」という仕事を軸に、彼の新たな人生が描かれる。つまり、まとめるとこのようになる。


職を失ったチェロ奏者が、勘違いから「納棺師」という職業に就き、そこで一人前の納棺師として認められていく話


これだけである。『おくりびと』の2時間はすべてこの回答を導き出すために存在する。
回答とは、すなわち「この男は一人前の納棺師になるかどうか?」という問いに対しての回答だ。
そして、これを「映画として」正しく展開させるために、以下の通りに三幕の構成が取られている。



【『おくりびと』の三幕構成】



(基本の三幕構成図)


◆第一幕(ビギニング/セットアップ)

第一幕はセットアップだ。冒頭の納棺師の仕事風景のアバンタイトルから始まり、主人公・大悟が都落ちして山形へと帰ってくる。ここで、彼は元チェロ奏者で、若い嫁がいるということがわかる。自身の故郷に帰ってきたということがわかり、アバンタイトル*1のおかげでゆくゆくは山崎努の下で納棺師として働くこともわかる。これら全ては舞台背景のセットアップだ。まだ本当の意味で物語は始まっていず、観客にその世界観を示している時間が続く。

では第一幕の終わりはどこか?それは本当の意味で物語が始まるまで、すなわち彼の新たな人生がスタートするその瞬間、だ。『おくりびと』の場合はそれは非常に明確にわかる。「大悟が働き始める初日」だ。当然ながらここにきて、彼は「納棺師」としての新たな人生をスタートさせることになる。

それは映画が始まってから25分後に訪れる。基本的な三幕構成の理想図にほぼ乗っ取っている。


◆第二幕(ミドル/コンフリクト)

第二幕ではコンフリクト(葛藤)が描かれる。『おくりびと』の最も大元のコンフリクトとなるものは、「納棺師」という仕事そのものに根付く貴賎の感情といえる。職業への偏見ゆえに、大悟は妻に自分の職業を隠し、自らも当初は自分の新しい職業を快く思っていない。彼が一人前となるには、彼自身もその感情を捨て去り、さらに周囲から認められる必要がある。しかし、第二幕で彼が認められることは無い。そこに行き付くまでの葛藤が、ここでの全てなのだ。

右往左往しながら二転三転する長い第二幕だが、「一人前の納棺師として認められていく」というゴールを考えると、その終わりはあっさりと見えてくる。「主人公が認められはじめる」ところで、第二幕は終わるのだ。そしてそれは、大悟が友人の母の納棺を行うシーンにて始まる。大悟夫婦が懇意であった銭湯の経営者にして、大悟の納棺師という職業を軽んじていた友人の、その母を綺麗に納棺し、それを友人と妻に見せることにより、ようやく彼は認められる。

ということは、その直前のシーン、一度家を出て行った妻が妊娠を知り戻ってくる、開始から91分の場面までが第二幕と考えていいだろう。これもまた、三幕構成のサイズとしては理想的だ。


◆第三幕(エンド/レゾリューション)

第三幕は当然のことながらその後のシーン全てだ。前述したように、ここにおいて大悟は妻からの承認、友人からの承認を得て、そして最後に最も大切な自分自身への承認を得る。自分自身への承認とは、自分の父に対する納棺だ。多くのドラマで男性の自己実現が父からの承認を経てなされるように、『おくりびと』でもまたそのテクニックが使われている。そして、父を看取った直後に映画は終わる*2

ここまでで124分。やや第三幕の比重が大きいという気がしなくも無いが、これもまた健全な誤差の範囲内に留まる。



【各ターニングポイントに関して】

さて、このように三幕の流れは見えた。では、各ポイントがどこに位置するのかを見てみたい。これに着目して物語を見ることにより、より強力な物語理解が得られるからだ。


◆第一ターニングポイント(プロットポイント1)

上記のことから、第一ターニングポイントは主人公が新たな仕事に足を踏み入れる瞬間、といえるだろう。ということはすなわち、山崎努演じる「社長との面接」ということになる。非常に単純だ。

面接のシーンは映画開始後20分〜23分の間だ。本作の第二幕は上記の通り25分から始まるので、これは非常に理想的な位置だ。


◆第二ターニングポイント(プロットポイント2)

ここは、主人公が認められ始めるきっかけだ。これも簡単、実家に帰っていた妻が戻ってくる場面、だ。

作品中では89分〜90分に位置する。

ここに続く直前の長いモンタージュシークエンスで、大悟が既に一人前に仕事をこなす様子が描かれる。そこでは既に社長の代わりとして納棺を自ら行う様子が見て取れる。彼は技術的には既に立派に一人前になっており、あと必要なものは彼への「承認」だけとなる。そして、妻の帰還がこれから起こる「承認」への第三幕のきっかけとなる(「妊娠」というかなりわかりやすいきっかけもここには仕込まれている)。ただし、妻はここで必ずしも夫を認めたわけではない。突如入った電話からなし崩し的に仕事に巻き込まれ、続くシークエンスで、彼はその承認を得ることになるのだ。

この場面がターニングポイントと考えながら見ると、はっきりとこれ以降のシーンでトーンが変わり始めることに気づくことができるだろう。


◆ミッドポイント

さて、一番やっかいなミッドポイントである。主人公が認められ始めるのは第三幕なので、それ以外で、話の方向性が変わるポイントを見極めなければならない。第二幕中で、話の流れが大きく変わる場面、だ。どこになるだろうか…。

結論から言ってしまうと、これは映画開始から55分の場面。社長と大悟が行った仕事の後に、妻を亡くした夫から礼を言われる場面だ。
この瞬間から、大悟はそれまで自分が一歩引いていた「納棺師」という職業にやりがいを感じ始めるようになる。もっと言えば、彼は真剣に「納棺師」という立場を目指すようになる。

これは、「納棺師として一人前になる」という彼のゴールをより強いものにする。そのため、果たして彼は周囲に認められるのか?というコンフリクトも強まり、終盤へ向けてより大きく話は動き始めるのだ。



【まとめ】

以上見てきて明らかなように、『おくりびと』は明確な三幕構成を持っている。
このブログの一番はじめに「三幕構成=面白い」と断じたが、近年の日本映画では稀な、それの見本のような作品といえるだろう。

こういう言い方が正しいかわからないが、そもそも滝田洋二郎は職人監督だ。『おくりびと』にしても非常に手堅く、間違いなく仕上げてはいるものの、その演出に極めて特異なものがあるわけではない。役者陣もまたしかり、である。皆すべからく良い演技はしているが、良くも悪くもその一つを取り出して深く印象に残る強烈な演技というわけではない。
つまり、『おくりびと』の評価の根幹をなすのは、この脚本にある。まさに脚本の勝利なのだ。

そして、このことは明らかに作品の大ヒットに繋がっている。『おくりびと』のヒットを受けて人は言う。「モントリオールで受賞したことが宣伝になった」「アカデミー賞外国語作品賞という奇跡で注目度があがった」。それは間違いはないだろう。しかし、ではなぜモントリオールで賞が取れたか?作品が面白かったからだ。なぜ作品が面白かったのか?それは脚本が良かったからだ。

近年の日本映画界では作品の成功を語るときに、マーケティングの良し悪しで語られることが圧倒的に大きい。しかし、一歩振り返ってみてほしい。『Shall We ダンス?』『フラガール』『ALWAYS 三丁目の夕日』など、精査はしていないがどれも明確な三幕構成を持っているはずだ。これらの作品が評価され、口コミが延び、ヒットに繋がる、その大きな原因の一つを、恐らく作業としては最も金のかからないであろう、脚本は占めている。その圧倒的な費用対効果にそろそろきちんと向き合ったほうが良い。そして、それを生み出しているのは三幕構成というシンプルで汎用性の高い、たった一つのロジックなのだ。



最後に予断ながら、今回「『おくりびと』はなぜアカデミー賞を取れたのか」というかなり挑発的なタイトルを付けたものの、実は筆者は『おくりびと』がアカデミー賞を取れたことに関しては別の理由があると考えている。細かく話せば長くなるので簡略に書くが、理由としては、

1、投票権を持つアカデミー会員の高齢化(それゆえ他の候補作品に較べて感情移入が容易だった)
2、マーケティングキャンペーンの成功(実際に上記の高齢者に向けてキャンペーンを貼り、さらに若い会員を締め出すことにより彼らの飢餓感を煽ったとの噂)
3、ライバルの不在(大本命と呼ばれていた『戦場でワルツを』がユダヤイスラエル)批判+高齢者にはしんどいアニメ作品ということで敬遠された)

の3つが大きくあるだろうと考えている。

*1:映画のタイトル前の一連のシークエンスのこと

*2:おくりびと』で唯一、脚本の公式に乗っ取っていないのは第三幕のラストに来るべき「レゾリューション(解決)」にあたるパートが無いことだ。父への死に化粧が終わったその場で、映画は唐突に終わるため、面食らった人も多いのではないだろうか