三幕構成に関して(3) 『おくりびと』はなぜアカデミー賞を取れたのか
前回は「三幕構成」を「構成」するキーワードに関して説明した。
今回は、ではそれらの「三幕構成」が実際にどのように使われているか、ということに関して述べる。
これは、三幕構成を解説する際にあらゆる脚本指南書で用いられている手法だ。引用される作品の代表格としては『刑事ジョン・ブック/目撃者』『アフリカの女王』『スターウォーズ』『ジョーズ』などが例としてあげられることが多い。そして当然ながら、三幕構成が上手く決まっているこれらは所謂「名作」と呼ばれるものばかりだ。
ただし、難点もある。脚本の指南書で著名なものは割と古いものが多かったりもするので、鉄板として出てくる映画もちょっと古い傾向にあるのだ。なので、「確かに当時は良かったかもしれないけど、それはもう現代じゃ古いんじゃないの?」と訝る視点が生まれてくる可能性がある。断じてそんなことはないのだが…。
そこで、今回は日本人にも馴染みの深い作品でかつ、最近の作品である、『おくりびと』をネタに三幕構成に関して述べてみようと思う。
『おくりびと』に関して今更説明の必要は無いだろう。いわずとしれた昨年のアカデミー賞外国語映画賞受賞作品であり、興行収入でも60億以上をたたき出している大ヒット作品だ。
注目すべきはこの作品が小山薫堂という本職・構成作家の手による第一回脚本作品だということだ。『おくりびと』は確実に三幕構成の論法に乗っ取って作られており、かなり意識的なレベルでそれが行われている。多分、間違いなくその手の指南書を小山薫堂は参考にしているはずだ(そしてそれは多分『ハリウッド・リライティング・バイブル』…ぶつぶつ…)。だから、この作品の構成をしっかりと見ていけば、大切なものは経験よりも方法論であると理解できるだろう。そして、この方法論こそ、実は膨大な経験の蓄積で作られているのだ。
【何についての話か?】
前置きが長くなったが、解説に入る。
まず抑えておきたいのは『おくりびと』は何についての話か?ということだ。主人公は映画冒頭でチェロ奏者としての職を無くし、失意の中、妻と一緒に故郷で新たなスタートを切ろうとしている。その後の話では、彼が勘違いして足を踏み入れた「納棺師」という仕事を軸に、彼の新たな人生が描かれる。つまり、まとめるとこのようになる。
職を失ったチェロ奏者が、勘違いから「納棺師」という職業に就き、そこで一人前の納棺師として認められていく話
これだけである。『おくりびと』の2時間はすべてこの回答を導き出すために存在する。
回答とは、すなわち「この男は一人前の納棺師になるかどうか?」という問いに対しての回答だ。
そして、これを「映画として」正しく展開させるために、以下の通りに三幕の構成が取られている。
【『おくりびと』の三幕構成】
◆第一幕(ビギニング/セットアップ)
第一幕はセットアップだ。冒頭の納棺師の仕事風景のアバンタイトルから始まり、主人公・大悟が都落ちして山形へと帰ってくる。ここで、彼は元チェロ奏者で、若い嫁がいるということがわかる。自身の故郷に帰ってきたということがわかり、アバンタイトル*1のおかげでゆくゆくは山崎努の下で納棺師として働くこともわかる。これら全ては舞台背景のセットアップだ。まだ本当の意味で物語は始まっていず、観客にその世界観を示している時間が続く。
では第一幕の終わりはどこか?それは本当の意味で物語が始まるまで、すなわち彼の新たな人生がスタートするその瞬間、だ。『おくりびと』の場合はそれは非常に明確にわかる。「大悟が働き始める初日」だ。当然ながらここにきて、彼は「納棺師」としての新たな人生をスタートさせることになる。
それは映画が始まってから25分後に訪れる。基本的な三幕構成の理想図にほぼ乗っ取っている。
◆第二幕(ミドル/コンフリクト)
第二幕ではコンフリクト(葛藤)が描かれる。『おくりびと』の最も大元のコンフリクトとなるものは、「納棺師」という仕事そのものに根付く貴賎の感情といえる。職業への偏見ゆえに、大悟は妻に自分の職業を隠し、自らも当初は自分の新しい職業を快く思っていない。彼が一人前となるには、彼自身もその感情を捨て去り、さらに周囲から認められる必要がある。しかし、第二幕で彼が認められることは無い。そこに行き付くまでの葛藤が、ここでの全てなのだ。
右往左往しながら二転三転する長い第二幕だが、「一人前の納棺師として認められていく」というゴールを考えると、その終わりはあっさりと見えてくる。「主人公が認められはじめる」ところで、第二幕は終わるのだ。そしてそれは、大悟が友人の母の納棺を行うシーンにて始まる。大悟夫婦が懇意であった銭湯の経営者にして、大悟の納棺師という職業を軽んじていた友人の、その母を綺麗に納棺し、それを友人と妻に見せることにより、ようやく彼は認められる。
ということは、その直前のシーン、一度家を出て行った妻が妊娠を知り戻ってくる、開始から91分の場面までが第二幕と考えていいだろう。これもまた、三幕構成のサイズとしては理想的だ。
◆第三幕(エンド/レゾリューション)
第三幕は当然のことながらその後のシーン全てだ。前述したように、ここにおいて大悟は妻からの承認、友人からの承認を得て、そして最後に最も大切な自分自身への承認を得る。自分自身への承認とは、自分の父に対する納棺だ。多くのドラマで男性の自己実現が父からの承認を経てなされるように、『おくりびと』でもまたそのテクニックが使われている。そして、父を看取った直後に映画は終わる*2。
ここまでで124分。やや第三幕の比重が大きいという気がしなくも無いが、これもまた健全な誤差の範囲内に留まる。
【各ターニングポイントに関して】
さて、このように三幕の流れは見えた。では、各ポイントがどこに位置するのかを見てみたい。これに着目して物語を見ることにより、より強力な物語理解が得られるからだ。
◆第一ターニングポイント(プロットポイント1)
上記のことから、第一ターニングポイントは主人公が新たな仕事に足を踏み入れる瞬間、といえるだろう。ということはすなわち、山崎努演じる「社長との面接」ということになる。非常に単純だ。
面接のシーンは映画開始後20分〜23分の間だ。本作の第二幕は上記の通り25分から始まるので、これは非常に理想的な位置だ。
◆第二ターニングポイント(プロットポイント2)
ここは、主人公が認められ始めるきっかけだ。これも簡単、実家に帰っていた妻が戻ってくる場面、だ。
作品中では89分〜90分に位置する。
ここに続く直前の長いモンタージュシークエンスで、大悟が既に一人前に仕事をこなす様子が描かれる。そこでは既に社長の代わりとして納棺を自ら行う様子が見て取れる。彼は技術的には既に立派に一人前になっており、あと必要なものは彼への「承認」だけとなる。そして、妻の帰還がこれから起こる「承認」への第三幕のきっかけとなる(「妊娠」というかなりわかりやすいきっかけもここには仕込まれている)。ただし、妻はここで必ずしも夫を認めたわけではない。突如入った電話からなし崩し的に仕事に巻き込まれ、続くシークエンスで、彼はその承認を得ることになるのだ。
この場面がターニングポイントと考えながら見ると、はっきりとこれ以降のシーンでトーンが変わり始めることに気づくことができるだろう。
◆ミッドポイント
さて、一番やっかいなミッドポイントである。主人公が認められ始めるのは第三幕なので、それ以外で、話の方向性が変わるポイントを見極めなければならない。第二幕中で、話の流れが大きく変わる場面、だ。どこになるだろうか…。
結論から言ってしまうと、これは映画開始から55分の場面。社長と大悟が行った仕事の後に、妻を亡くした夫から礼を言われる場面だ。
この瞬間から、大悟はそれまで自分が一歩引いていた「納棺師」という職業にやりがいを感じ始めるようになる。もっと言えば、彼は真剣に「納棺師」という立場を目指すようになる。
これは、「納棺師として一人前になる」という彼のゴールをより強いものにする。そのため、果たして彼は周囲に認められるのか?というコンフリクトも強まり、終盤へ向けてより大きく話は動き始めるのだ。
【まとめ】
以上見てきて明らかなように、『おくりびと』は明確な三幕構成を持っている。
このブログの一番はじめに「三幕構成=面白い」と断じたが、近年の日本映画では稀な、それの見本のような作品といえるだろう。
こういう言い方が正しいかわからないが、そもそも滝田洋二郎は職人監督だ。『おくりびと』にしても非常に手堅く、間違いなく仕上げてはいるものの、その演出に極めて特異なものがあるわけではない。役者陣もまたしかり、である。皆すべからく良い演技はしているが、良くも悪くもその一つを取り出して深く印象に残る強烈な演技というわけではない。
つまり、『おくりびと』の評価の根幹をなすのは、この脚本にある。まさに脚本の勝利なのだ。
そして、このことは明らかに作品の大ヒットに繋がっている。『おくりびと』のヒットを受けて人は言う。「モントリオールで受賞したことが宣伝になった」「アカデミー賞外国語作品賞という奇跡で注目度があがった」。それは間違いはないだろう。しかし、ではなぜモントリオールで賞が取れたか?作品が面白かったからだ。なぜ作品が面白かったのか?それは脚本が良かったからだ。
近年の日本映画界では作品の成功を語るときに、マーケティングの良し悪しで語られることが圧倒的に大きい。しかし、一歩振り返ってみてほしい。『Shall We ダンス?』『フラガール』『ALWAYS 三丁目の夕日』など、精査はしていないがどれも明確な三幕構成を持っているはずだ。これらの作品が評価され、口コミが延び、ヒットに繋がる、その大きな原因の一つを、恐らく作業としては最も金のかからないであろう、脚本は占めている。その圧倒的な費用対効果にそろそろきちんと向き合ったほうが良い。そして、それを生み出しているのは三幕構成というシンプルで汎用性の高い、たった一つのロジックなのだ。
最後に予断ながら、今回「『おくりびと』はなぜアカデミー賞を取れたのか」というかなり挑発的なタイトルを付けたものの、実は筆者は『おくりびと』がアカデミー賞を取れたことに関しては別の理由があると考えている。細かく話せば長くなるので簡略に書くが、理由としては、
1、投票権を持つアカデミー会員の高齢化(それゆえ他の候補作品に較べて感情移入が容易だった)
2、マーケティングキャンペーンの成功(実際に上記の高齢者に向けてキャンペーンを貼り、さらに若い会員を締め出すことにより彼らの飢餓感を煽ったとの噂)
3、ライバルの不在(大本命と呼ばれていた『戦場でワルツを』がユダヤ(イスラエル)批判+高齢者にはしんどいアニメ作品ということで敬遠された)
の3つが大きくあるだろうと考えている。
『ディア・ドクター』
今更鑑賞。ロングランに感謝。
いや、この映画、食わず嫌いしてた。観れて良かった。久しぶりに1800円の正規入場料払って惜しくないと思った。本年度邦画では(そこまで本数観てないけど)今のところナンバーワン。
【脚本に関して】
極論の謗りを覚悟で言ってしまえば、西川美和作品はどれもつまるところは「群像劇」なのである。「群像劇」には、特にこれといった主人公を中心に話を展開させず、ある事件や設定(町とか軍隊とかそういったコミュニティ)を主軸として展開するという特徴がある。本作でも、笑福亭鶴瓶演じる医師は、もちろん主役扱いなのだけれども、本当の話の主軸は「田舎町にモグリの医者がいた」という一連の事件であり、それがどう顛末するか、である。
これは、「ゆれる」が兄弟の問題でありながら、究極のところは「吊り橋から落下した女性は他殺か?事故か?自殺か?」という事件が物語の主軸だったことにも通ずる。「蛇いちご」はもうだいぶ前に観たので記憶が定かではないが、「兄は正直か否か?」という問いが主体だったように記憶している。
そういった意味では、あくまで三幕構成を是とした場合ではあるが、本作には冗長な部分が無いわけではない。まず誰もが挙げることだろうが、医師が逃げてからの展開が長すぎる。これは『空気人形』で師であるところの是枝裕和が「みなさん」を描くあまりに同様のミスを犯していることを思い出し、勘ぐってしまった。
難しいのは医師を主人公とした場合には、八千草薫の登場は遅すぎると断ずることはできる。これは映画冒頭で警察が登場し、既に医師が偽者であるということを示しているのにも関わらず、端的にその医師を破滅に導く葛藤(=つまりは第二幕)の始まりが遅すぎるということになるからだ。しかしながら、本作を「群像劇」として観るとそうとも言い切れないのがもどかしい。
【脚本以外に関して】
脚本から離れて何よりもこの映画が良かったのは、一つにはユーモアの要素が追加されたこと。これまでの西川作品はブラックな皮肉は多数あれど、本作のようなユーモアは用いられてこなかった。本作のそれもブラックではあるが、BGMのトーンからも明らかなように、これまでの作品とは違うある種の温かみがあり、それはラストにもはっきりと結実する。第二には、これは誰もが納得するだろうが、キャスティングだ。一目瞭然なので多くは言わない。
そして個人的に好きだったのは、笑福亭鶴瓶と八千草薫の顛末がひとつのラブストーリーとして描かれていることである。「30前後の未婚の美人女医」という垂涎の設定を与えられた井川遥があれだけ素っ気無く描かれるのに対して、八千草薫は妖艶とまで言っていいくらい丁寧に描写されている。「着物が汚れる」と気にするなど、医師に対して乙女のような仕草も見せるし、医師も医師で策を弄してまで仲をとりなそうとすらする。「秘密の共有」という二人の関係性の基盤も恋愛映画では鉄板のものだ。
単純な社会派として観るとラストを蛇足としてみる向きも少なくないようだが、上記ラブストーリー要素を完結するための必然として圧倒的に支持する。作品としては『ゆれる』のほうがまとまっており力強いものという印象だが、個人的な趣味も合わせて西川作品ではベストと思う。
<評価>
[ ]天才!!
[○]必見!
[ ]観てもいいかも
[ ]ビデオで充分!
[ ]リファンド!!(金返せ)
三幕構成に関して(2)〜各用語のまとめインデックス〜
前回は、「三幕構成を持つ映画は面白い=三幕構成を持たない映画はつまらない」ということに関して述べた。今回は、それを受けて三幕構成で使われる用語に関して一つずつ解説していく。
最初に断っておくが、今回の用語解説のみで全てを理解することは不可能だ。むしろ、今回の用語解説は今後のためのレファレンス的な位置づけとなるだろう。前回も少し触れたが、三幕構成でまず大事なことは、それを「疑わない」ことだが、表面的な用語の解説のみでそこまで深く理解してもらうことは困難だと思う。
では、以下に順次解説していく。
◆第一幕(ビギニング/セットアップ)
映画冒頭から、二時間モノであれば約30分までにあたるパート。「セットアップ」とも呼ばれるのはこのパートにおいて、時代、場所、登場人物、状況、事件の発端、映画のトーン(日本語風には「天地人=天(情勢)、地(場所)、人(人物)」)などが観客に提示されるため。ここにおいて、物語の根幹となる事件はまだ始まらない。
◆第二幕(ミドル/コンフリクト)
第一幕の終わりから、第三幕の始まりまで、二時間モノであれば大雑把に30分〜90分までを占める映画のメインパート。第一幕で提示された設定が、ここにおいて展開する。「コンフリクト」とは「葛藤」の意味で、ここにおいて映画の主人公の葛藤が描かれるため、このように呼ばれる(葛藤と物語がどのように関係しているのかは後日述べる)。最も展開させるのが難しいパートで、映画を生かすも殺すもこのパートの出来次第だと言える。
◆第三幕(エンド/レゾリューション)
第二幕の終わりから、終劇まで。二時間モノであれば約90分〜120分までを担当するパート。第二幕での葛藤が頂点に達し、第三幕で爆発する。アクション映画などではクライマックスの長いアクションシーンなどがこのパートに当たる。
厳密に言えば、第三幕はクライマックス+レゾリューション(解決)で成り立っている。その配分はクライマックス:25ページ、レゾリューション:5ページほどとなる。両者の違いは、例えばクライマックスが主人公と悪役の戦いだとすると、レゾリューションは悪役との戦いに勝った主人公のその後、ということになる。このレゾリューションは通常短ければ短いほど良いとされる(通常2〜3分、長くても5分以内)。
◆第一ターニングポイント(プロットポイント1)
二時間モノであれば、通常第二幕が始まる直前の25ページ近辺に設置される、第一幕と第二幕を結びつけるシーンまたは瞬間。ここを経て、物語は違う方向へと向かうことから、ターニングポイントと呼ばれる。
◆第二ターニングポイント(プロットポイント2)
上記「第一ターニングポイント」と同じで、第二幕から第三幕を結びつけるシーンまたは瞬間。第三幕の開始直前、85ページ近辺に設置される。
◆ミッドポイント
映画のちょうど中間地点、第二幕のど真ん中(60ページ前後)に置かれる話の転換点。ただし「ターニングポイント」ほど劇的ではなく、どちらかと言えば「小さな変化」である。
細かく言えば、第一ターニングポイントは主人公の「葛藤」への入り口(本当の意味での物語の始まり)として描かれ、第二ターニングポイントは主人公の葛藤の「解決」への糸口として描かれるが、ミッドポイントではその「葛藤」は持続したり、増大したり、方向性を変えたりするのみで、「葛藤」そのものは無くならない。なぜなら、「葛藤」が無くなる=ドラマの終わりを意味するからだ。
以上、このように書くといかにもシステマチックで拒否反応を示されるようなことばかりかもしれない。
しかし、繰り返すが脚本とは「技術」であり、上記のツールは脚本を書く上で欠かすことのできない公式である。
これを持たずにエンターテイメントの脚本を書くということは、海図を持たないで海に出るようなものだ。
以前、とある日本の脚本家の本で、「米国式ストラクチャーに頼ると映画はワンパターンになる」との言葉を読んだことがあるが、それは全くの間違いだ。なぜなら、古今東西の名作と呼ばれる映画のみでなく、テレビ台本、文学、戯曲、古典、神話などの物語構造を持った創作物は全て上記のパラダイムに落とし込むことができるからだ。絵画をする人が須らく基本的なデッサンを身につけるように、上記のストラクチャーは、脚本の正しい「線」を作り上げるための道具なのだ。
次回は、この一見ややこしい三幕構成をより有機的に解説するために、どんな脚本指南書でも取られている方法、すなわち「既存の作品を当てはめて解説する」ということを行ってみたい。
三幕構成こそすべて(1)
前の「脚本」の回では、いかに「脚本が良い=映画が良い」ということかということに関して述べた。
今回からは、「ではどのような脚本が良い脚本なのか」ということに関して述べて行く。
さて、大前提は以下である。
今回の極論:「良い脚本は三幕構成を持っている」
始めに結論を出してしまったが、これは特にハリウッドの全ての脚本の基本にある考え方だ。「スリーアクト・ストラクチャー」と呼んでもよい。それではまず、「三幕構成」に関して図解する。以下の通りとなる。
このように、ビギニング(第一幕/セットアップ)ミドル(第二幕/コンフリクト)エンド(第三幕/レゾリューション)の三つのパートから構成されるものが、一般に「三幕構成/スリーアクト」と言われるものだ。さらに言えば、上図の通り大体この三幕の割合はあらかじめ決められており、通常2時間の映画では、それは以下の通りとなる。
ビギニング:1-30ページ
ミドル:30-90ページ
エンド:90-120ページ
※ページ数は1ページ=1分としてカウントされるので、上記ページ数=分数でもある。
断言してもいいが、「エンターテイメントとして面白い」と感じるハリウッド映画の脚本は(そしてさして面白くなくても)、必ずこの仕組みを持っている。それは、興味があれば時計を持ってカウントしながら、幾つかの作品を観てもらえればすぐにわかるはずだ。
では早速この三幕構成を形づくる要素、すなわちビギニング、ミドル、エンド、そして第一ターニングポイント、第二ターニングポイント、ミッドポイントに関して説明していきたいのだが、それよりもまず、「三幕構成」を考えるにあたり、何にも先駆けて、最も大事なことがある。それは、
「三幕構成が面白い映画を作るということに疑問を抱かない」
ということだ。
とかく、始めにこの公式を学ぶ人は、若ければ若いほど「物語というものは自由なはずだ」という主張に陥りがちとなる。しかし、これまた断言してもいい。そういう人が思っている「自由な物語」が意外なほど三幕構成の形に忠実であるということを(そうでなければそれは純然たるアート作品だ。芸術系映画に関しては娯楽映画と完璧に論点や評価基準が異なるので、その場合は単純にお門違いの意見を述べていることになるだろう)。
もう少し詳しく説明してみよう。例えばハリウッドの脚本教育界の大家、シド・フィールドは著書「Screenplay」(邦訳:映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと)において以下のように述べている。
中には"発端""中盤""結末"という形を信じない人もいるだろう。芸術は、人生のように、始まりも終わりもなく、いくつかの瞬間によって成り立っているのだと言うかもしれない。
(中略)しかし、それには同意できない。誕生、人生、死。これらは、"発端""中盤""結末"そのものではないだろうか?
春、夏、秋、冬、これらも発端と中盤と結末ではないだろうか?
朝、昼、晩。これはいつも同じであるが、またいつも違うものである。(中略)体の細胞を考えてみよう。どれほど飽和し、蓄えられ、そして再生産されるのか?七年が体の細胞にとってのサイクルである。生まれて、働き、死んで、また生まれるのだ。
脚本も同じである。明確な発端があり、中盤があり、そして結末がある。
かつてヒッチコックは言った。
「映画とは、退屈な部分がカットされた人生である」と。
シド・フィールドが人生を三幕構成に例えたことは、このヒッチコックの言葉を想起させる。彼らが言うように、我々の人生も「大きな物語」(東浩紀的な意味合いではなく)の一つなのだとしたら、そこには明確な三幕構成が入れ子構造のように広がっているはずだ。それが人が物語と呼ぶものの本質だ。
そして、映画とは映像で語る物語<ストーリー>だ。
以上の点を充分に踏まえてもらった上で、次回は三幕構成の詳細に関して述べて行く。
…ついでながら、一言チクリと言っておくと、日本映画においてこの三幕構成がクロースアップされることは少ない。一つには後日述べるが「起承転結」の概念が曖昧なまま誤って流布していることが理由だと思う。三幕構成自体は上記で断言したとおり、物語の基本フォームなので、書き手が「物語」を作っている以上、自然に「それっぽくなっている」ものは当然多いが、脚本開発においてハリウッド映画のように厳格にその是非は問われ無い。事実、筆者がこれまでに出席した脚本会議と名のつくものにおいて、「ファースト・アクトが…」などといった単語が話題に上った会議は一度も無い。
……あと、今回のエントリーが「ウィークエンドシャッフル」の「スクリプトドクター」の回の乗っかりネタみたいになりましたが、偶然です。「スクリプトドクター」の回に関しては僭越ながら補足説明等したいこともあるのですが、取り急ぎ三幕構成を話しきらないことには進めないのでかなり後ほどになります。
『空気人形』
『歩いても 歩いても』の評価が未だ膨らみ続ける中、立て続けに公開される是枝裕和監督の最新作。原作は『自虐の詩』が映画化もされた業田良家。脚本は他の是枝作品がそうであるように、監督自身。カンヌの招待は是枝監督のこれまでの功績によるものが大きいが、本作はトロントにも出品されており、国際的な評価への足がかりを得ている。主演ペ・ドゥナ。
是枝監督のこれまでの作品は、意外かもしれないが個人的には特に脚本に置いて高く評価している。「意外かも」と書いたのは、スタイルとして、基本的には即興演技を好む監督として知られているからだ。しかし、仮に台詞をのパートを役者にゆだねるということは、その他の点、つまりは構成に関してより緻密なものを作り上げることを意味する。
是枝氏の作品の国内外での評価の高さはこの脚本上の構成の緻密さを抜きにしては語れない。構成が緻密ということはつまり、エンターテイニングなのだ。その意味で、極めて真摯に作家的・シネフィル的なモチーフを扱う反面、同時代の日本人映画作家と比べると格段に脚本構成が実はハリウッド的でもある。『ワンダフル・ライフ』が『After Life』という題でアメリカでも一部根強いファンがいることは、同作がフランク・キャプラ映画のオマージュという主題を持つ事の他に、そのことが大きく働いていると考えている。そして、それは氏のドキュメンタリー作家という側面とも無関係ではない。膨大な素材を人に届けるために取捨選択をしていく作業は、それすなわち構成の作業だからだ。
そして、是枝監督初のアダプテーション(脚色)作品である本作には、これまでほどの脚本の完成度は見られない。原作は未読なのだが、好意的に考えるならば原作の要素を忠実に再現しようとしたためのことなのだろう。
リアルドールを扱った作品としては昨年の『ラースとその彼女』が思い出されるが、同作が人間であるラース側に焦点が当てられていたのに対して、本作はあくまで人形が主人公となる。しかし、この人形の目的が終止曖昧なままで終わる。「都会の空虚さを抱く人々」と「代用であることのわびしさ」が二大テーマとして提示されるが、中盤以降でこれらが混同され、オーバーワーク気味になる。同氏のこれまでの作品に関しても、ストーリーに対してテーマが声高になりすぎるきらいがあるが、本作はストーリーが薄い分、テーマが強い、悪意を持って言うのならば説教じみている感も否めない。
また、いきなりレンタルビデオ店で働きはじめるなど、一種のファンタジーとしての割り切りも多分にあるものの、ARATAの住居がビデオ店のバイトにしては豪華すぎる点などが気になる。そしてさすがにラストのあるCGの出来映えに関してはファンタジーでは割り切れないものがあるだろう。
では、本作の魅力は何かと言えば、それはもうペ・ドゥナしかない。冒頭こそ型にはまった「人形」演技だったが、それにしてもスクリーンでの存在感が凄まじく、片端に映っているだけで全ての視線を集める。コミカルな仕草も魅力的だし、下世話な話脱ぎっぷりもいい。それもただ脱いでいるだけではなく、シーンによってエロティックに見えたり見えなかったりするあたり、演出の力もあるのだろうが演技に依るところも多いのではないだろうか。
また、プロダクションバリューが異様に高いと思っていたら、撮影リー・ピンビン、美術種田陽平と知り納得。およそ現代アジアの最高のコンビではないだろうか。
以上、長くなったがつまるところ一言で言えば以下の通り。
<評価>
[ ]天才!!
[ ]必見!
[ ]観てもいいかも
[○]ビデオで充分!
[ ]リファンド!!(金返せ)
『くもりときどきミートボール』
『モンスターvsエイリアン』『ボルト』に続き今年はやたらと3Dアニメを良く観に行く。予告編が超絶に面白そうだった、アメリカ版『晴れときどきぶた』。マッドサイエンティストの若者の発明によって空から色んな食べ物がじゃんじゃん降ってくるというお話。
原作は米国で人気の絵本。ただしストーリーはコンセプト以外はほぼオリジナルの模様。脚本は監督もしたフィル・ロードとクリス・ミラーの二人。この二人は以前は実写のお下劣ティーン映画『Extreme Movie』を手がけている模様。
毎回思うのだがこの手の米国産のアニメ系の脚本は本当に手堅い。構成ががっちりしていて無駄が無いことが多い(まぁ、アニメであれば実写のように撮影上の制限はほぼ無くなる、というのも一因としてはあるだろうが)。ピクサー作品は別格というが、正直脚本の作りとしてはどれも遜色無いと思う。ではなぜ日本ではピクサーのみが突出しているのか、というのは興味深い話ではある。そんな本作はソニーアニメーションの作品。
この作品、とても可愛らしい作品なのだけれども、惜しむらくはやはりアメリカ色が濃厚ということ。吹き替えを観るしか無かったのでそうしたのだが、かなり訳に苦戦したギャグがちらほらあった。それから出てくる食べ物が「アメリカ人に馴染みの深いもの」ばかりなので、付いて行きづらいところも(リコリス菓子とか)。あと、邦訳のときに「草食系」などの流行言葉を意図的に入れるのはどうしたものか。
また、がっちりとした構成ではあるものの、プロットやキャラクターの独創性にはちょっと乏しい。むしろ食品関係の細かなアイデアの方に目が移る。ということで主眼となるのはむしろその映像。チーズバーガーが空から降って来たらどうなるか、人が入れるゼリーの城やアイスクリームの雪…そういったものをアニメーションながら疑似体験できる。ただし、これまた最近の3Dアニメの特性なのか、3Dということを強調した演出はあまり無い。
総評としては、大人もかろうじて楽しめるが、全般的には子供向けの作品と言った印象。冒頭であげた二作に比べると劣る感じ。
それにしても世界同時公開だとは言え日本のソニーのこの配給に対するやる気の無さはどうだろう。アメリカはBox Officeトップ1を飾り、オープニング30億突破してるわけだし、ちゃんとやればポテンシャルの無いものとも思えないのだが…。
<評価>
[ ]天才!!
[ ]必見!
[○]観てもいいかも
[ ]ビデオで充分!
[ ]リファンド!!(金返せ)
はじめに紙は脚本を創造された
『アマルフィ 女神の報酬』は2009年公開、フジテレビの50周年記念作品だ。織田某主演、ケータイ動画を使っての壮大なプリクエル映像展開、尋常ならざるTVスポット量等々、50周年の名に恥じぬ、フジテレビの威信をかけたその態勢により、興行収入は30億円を突破した。(2009年8月末現在)
しかし一口に30億円とはいえ、この映画が成功しているとはどうも言いがたい。プロデューサーによれば、製作費はフジテレビ史上最高額であり、ということはこれまで最高額だったといわれる『大奥』の25億円を抜いていることになる(ただし、当時の記事では20億円との話もある)。
こういった報道では製作費は常に水増しされているのが常だが、とはいえプロデューサーの言葉もあることだし、20億円前後が目安だろう(もちろんこれにはP&A*1も含んでいる)。とすると、常軌を逸した追い告*2をもってしても、この映画は興行的には不振だったといえるのではないか。
というのも、通常、映画館のチケット代の半分は興行(映画館)側の取り分となるからだ。すなわち、興行収入のうち、利益となるのは半分のみということになり、今回30億を突破した同作も、利益としては現状で15億のみであり、製作費をリクープ*3していないことになる。
なぜか?
なぜ、フジテレビが50周年とまで銘打って作り上げた作品が、そのような失敗に終わってしまったのか。
答えは唯一つ。
「クソつまらない」からだ。
以下は、以下は同作に対する幾つかの著名ウェブ映画批評の反応だ。
まどぎわ通信/☆1つ(5点満点)
破壊屋/☆1つ(5点満点)
見映画批評/40点(100点満点)
超映画批評/90点(100点満点)
前田氏を抜いて全員が否定的な点数をつけている。
要するにつまらない、という意見が大半ということだ。
では、どのように「つまらない」のか。その中身を見てみよう。
少なくとも原作者が辞退しているのは,素直に考えると脚本に満足していないのだろう.完成したシナリオはキャスティングを見てしまうと展開が想像できてしまう出来だ.イタリアの光景で誤魔化されているものの,あれと同じトリックを日本を舞台として描いたら「レイン・フォール/雨の牙」級の駄プロットだと言える.
同サイト管理人であるまどぎわさんの批評は、役者論をさらいはするが、根幹は上記の点にある。
実際に本文中で「以下ネタバレ」としてからは、堰を切ったように脚本への批判が集中する。
(ちなみに、原作者が辞退というのは、同作品の原作者である真保裕一氏が脚本に参加していたにもかかわらず、脚本家クレジットを辞退したのではないかという噂を指している。驚くべきことに同作品に脚本家はいないのだ)
・ぶつ切り編集のオープニングに観客からは苦笑が漏れる。
・誘拐犯から「娘を預かった。身代金を用意しろ」という電話が、イタリアでも使えるドコモのケータイ(この映画のスポンサー)にかかってくる。
・その頃、イタリア大統領はサラ・ブライトマンのコンサートを鑑賞していた。延々とサラ・ブライトマンの本人映像が流れる。ところで日本人って何でそんなにサラ・ブライトマンをありがたがるのだろうか?
・事件の95%が終わったというときに、オダルフィ登場!このときに武器を持っていないことをアピールするオダルフィの動作が妙に笑える。
続いて、名物サイト破壊屋管理人、ギッチョさんの批評。これはギッチョさんが徹底的にアマルフィをぶった切ったレビュー(『マッドシネマ』の一環)において、脚本以外の点で突っ込んだ点である。逆に言えば、これ以外の、印刷すれば10ページ以上になろうかという突っ込み項目は何かしらストーリー、すなわち脚本に関係した矛盾点であり、「脚本の時点で解消可能なもの」だ。
少女の誘拐事件解決のために走り回る外交官と犯人グループの虚々実々の駆け引きは息をのむ緊張感。しかし、後半のあまりにも杜撰な展開に稚拙な脚本が馬脚を現す。無理やりなこじつけに近い犯人グループの計画には呆れてしまう。
さらに、ウェブ界隈では独特の批評基準により周囲を戸惑わせることも少なくない福本氏。
その福本氏にしても、『アマルフィ』に対しては辛辣な姿勢を示す。こちらにおいてもやはり脚本の出来の悪さが争点となっている。
では、今回唯一高評価を下した『超映画批評』前田氏の評を見てみよう。
では本作の売りは何かというと、きわめてよくできた脚本につきる。実力派ミステリ作家真保裕一が、「フジテレビ開局50周年記念の織田裕二主演大作」のためだけに考えたストーリーは、長編原作を無理して縮めたものでも、人気マンガを実写にしたものでもない。限りある予算の中で可能な最良の物語を、知恵を絞って突き詰めたその結晶だ。本来脚本とは、すべてこのように作るべきものなのだが……。
本作に関しては、子飼いのメディア以外では紙・ウェブ媒体問わず一と言ってもいいほど孤高に本作を絶賛された前田氏。
あまりにも不自然なその褒めっぷりに、ギッチョさんからは
フジ・サンケイグループに大切な人を誘拐されて、脅されて上記の文章を書いているのではないだろうか
とも指摘されている。
しかし、前田氏の批評を裏返せば、これもまた脚本のことを言っているのだ。
先の文章は、以下のように続いて行く。
たくさんお金がかかったであろうイタリアロケや、そこで記録した素晴らしい景色に、なんとこの映画はまったく頼っていない。景色など二の次三の次、その程度の扱いだったのである。
つまり、巨額の製作費もイタリアロケも要素も脚本さえ良ければ関係ないよ、と言ってるのである。
そう思えば、「本来脚本は、すべてこのようにつくるべき……」という発言も、単純にオリジナル脚本*4を作ったことに関してかも知れない、とも思える(事実、その点は『アマルフィ』における数少ない賞賛すべきポイントだ)。そう考えると上記の文章は全て上質な皮肉とも取れなくも無いが、必ずしもそうとばかり思えないのが同サイトの味わい深いところだと思う。
話がそれてしまったが、もうお分かりだろうか。
各著名映画サイト管理人たちが「つまらない」と呼ぶものの正体。
そして「面白い」と呼ぶものの正体。
全ては、脚本なのだ。
より誤解を招かないように言うならば,
映画の「面白さ」において、脚本と言うものはかくも大きなウエイトを占める。それはもう、十中八九くらいの勢いを占める。そして、料理が「おいしい」ものであるべきなように、映画とは「面白い」ものでなければならない。
もちろん、映画の「面白さ」は脚本のみでは無い。演技、演出、編集、美術、音響、音楽などなど、
様々な要素が組み合わさってのものだろう。しかし、それでも、「面白かった」と思わせるために最も重要なものは、基本的にはストーリーであり、ストーリーのほぼ全てを形づくっている物は、「脚本」なのである。
先人は言った。「いい脚本からダメな映画ができることはあるが、ダメな脚本からいい映画が生まれることは絶対にない」、と。*5
日本映画がダメと言われるその元凶には、脚本の問題が大きくある。
本ブログは、脚本という視点を特に強調して映画を見つめ直していくことを趣旨としています。
今回の極論:映画が面白い=脚本が面白いということである



